いま、なぜ魯迅か

佐高信(2019)「いま、なぜ魯迅か」(ISBN:9784087210958)を読みました。事前に魯迅について知っていた僅かな事柄を併せて、読後の感想を記します。

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 魯迅は『阿Q正伝』を代表作とする作家です。1881年中国浙江省紹興市に生まれました。本名は周树人といい、魯迅ペンネームです。当初医者を志し、日本の東北大学医学部(当時、仙台医専)に留学します。しかし、留学先での体験(幻灯事件)により「学医救不了中国」と思い立ち、医学を捨てて文学に転じます(弃医从文)。1911年辛亥革命により中国で君主制が廃止される数年前のことでした。

 時代背景を考慮すると、支配者-被支配者関係は現代よりも遥に苛烈であったわけですが、魯迅の著書はこの問題を取り上げるものが多かったようです。中でも仙台での恩師であった藤野厳九郎について記した『藤野先生』という文章は「ドレイを持つことにおいて、ドレイの主人もまたドレイである」と結ばれています。必ずしも単純な権力批判というものでもないように私には思えます。

 魯迅の批判の対象は儒教道徳にまで及びます。「私は天国をきらいます。支那に於ける善人どもは私は大抵きらひなので若し将来にこんな人々と終始一所に居ると実に困ります」(佐高原文ママ)。全ての物事を一旦疑い、その中から本当に正しいと自分で思える物事だけを拾い上げるという魯迅の考え方が表現されているように思います。『故事新編~新関~』の中でも「誠実なる人がしきりに叫んでいる公理にしても、現今の中国にあっては、善人を救助することができないばかりでなく、かえって悪人を保護することにさえなっている」...「公理は一斤何円ですか?」と皮肉っています。道徳・常識など皆が正しいと思っていることを、とにかく一旦疑ってみようという考えの人だったのでしょう。

 そんな熱量の高い、エネルギーの塊りのような魯迅ですが、17歳年下の妻・許広平との往復書簡の中では「いつも小鬼(魯迅がつけた許広平のニックネーム)の前で失敗し、そのたびに屁理屈をこねて恥を隠す」「何かにつけてお母さん、お母さんと言って、まだ幼な心がぬけきっていない」などと妻から指摘され、人間らしい側面も見せています。

 また上海在住時代は、内山完造・美喜夫妻が営む内山書店と深い親交を結んでいました。店主夫人の内山美喜は魯迅に「その口ひげは、お好きな(夏目)漱石先生のまねをしてはるんと違います?」と軽口を言ったこともあるそうです。内山書店の日本法人は現在も東京神田神保町で営業されています。

 1936年、その内山らが手配した日本人医師の治療も空しく55歳で亡くなります。

 魯迅の遺書ともいえる『死』という文章は箇条書きで書かれたものでした。「

(前略)

三、記念に類することは、一切やってはならない。

四、私を忘れ、自分の生活のことを考えること。-さもなくば、それこそ大馬鹿者だ。

(後略)