中華人民共和国史

最近、天児慧(2013)「中華人民共和国史-新版-」を読みました。内容と感想を年表形式で要約してみたいと思います。

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西暦(年) 内容
 1946  国民党・共産党内戦。
 1949

 10月1日、中華人民共和国成立宣言。

 1953

 党の実権を握ろうとした高崗が毛沢東周恩来・鄧小平の反撃により自殺しました。背景にはソ連スターリンが死亡したことによりソ連からの影響力が低下したことがあるとされています。

 この事件により毛沢東の主導権が確立しました。

 1954  全人代第1回会議で毛沢東国家主席に選出。

 1954~

 1957

 冒進期

 労働・分配を集団化する社会主義化を推進する中、緩やかな発展と停滞を繰り返す時期でした。

 1958

 大躍進

 冒進に満足できずに急進的なスローガンを打ち立てますが、無謀な生産増、悪平等にともなう浪費、虚偽の生産報告を招く結果となります。

 1959

 大挫折

 大躍進は1500万~4000万人とも言われる餓死者が発生する悲惨な結末を迎えます。 

 1962

 このころ、劉少奇と鄧小平が経済立て直しをはかります。 有名な「白猫黒猫論」も、この頃の発言です。

 1964

 トップの座を一旦追われていた毛沢東が、この頃から林彪と急激に接近します。

 文化大革命の始まりは、この頃とされています。

 1967~

 1969

 毛沢東らにより劉少奇と鄧小平が失脚させられます。余談ですがこの時期、現国家主席習近平も不遇な学生時代を過ごしたとされています。 

 旧地主・旧資本家らに対する差別構造への不満が、文化大革命の背景には有ったとされています。文化大革命による死者は1000万人、名誉や財産を失った被害者は1億人とも言われています。

 1971

 林彪毛沢東暗殺クーデターに失敗し、ソ連へ亡命、墜落死します。狭義の文化大革命の終焉とされます。

 同年、周恩来キッシンジャー米大統領補佐官が会談します。

 1972

 ニクソン米大領領が訪中します。

 この頃、鄧小平が周恩来の後ろ盾を得て復権を果たします。文化大革命から路線変更し、対外的にも脚光を浴びますが「四人組」との対立も激化します。

 1976

 1月8日、周恩来が亡くなります。周恩来追悼大会を最後に再び鄧小平が失脚します。

 7月6日、朱徳人民解放軍将軍死去。同28日唐山大地震

 そして、9月9日毛沢東が82歳で亡くなります。

 

 10月、「四人組」が拘束され失脚します。華国鋒毛沢東の後継者となります。

 1978

 権力基盤の弱い華国鋒の政策は、毛沢東路線の継承しか有り得ませんでした。

 12月の中共中央工作会議で鄧小平が、みたび表舞台へ返り咲きます。

 鄧小平・胡耀邦趙紫陽によるトロイカ体制でした。

 この時の鄧小平らの政策は農村にあっては「自留地の拡大」「生産請負の導入」、深圳をはじめとする沿岸特別区にあっては「対外開放政策」「外資の誘致」というものでした。イデオロギーよりも経済を重視した民主的・現実的なものであったと言えます。

 豊かになれる条件を持った地域、人々から進んで豊かになろうといった「先富論」が主張されました。

 1989

 胡耀邦の死去を契機に学生デモが拡大します。

 5月20日北京に戒厳令が発令され、6月3日未明に人民解放軍が北京を軍事制圧します(天安門事件)。

 天安門事件により趙紫陽も失脚し、鄧小平の強い影響力のもと江沢民体制へのソフトランディングがなされます。

 江沢民上海交通大学出身の実務官僚でした。経済の改革開放を推進しながらも「民主化」を鎮圧できる人物として高い評価を受けました。この時期から中国は、強力な指導者よりも調整者としてのリーダーが求められるようになったと考えられます。

 1997

 2月19日、鄧小平死去。

 香港返還。

 2003  胡錦涛国家主席に就任。

 この10年は中国の国際的地位が急速に向上した10年であったとともに、国内の格差が急速に拡大した10年でもありました。

 なかでも都市戸籍取得者と農村戸籍の国民の間に、住居・医療・福祉・社会保障・教育など多岐にわたる分野で大きな待遇の差が有るといった「農民工の問題」は特に根深い問題となっています。「先富論により先取りした成功の負債」が、再び今突きつけられていると言えそうです。

 2013  習近平国家主席に就任。

 

 天児(2013)は習近平が就任時に繰り返した「中華民族の夢」とは、西洋列強による侵略や伝統的な王朝体制といった「過去の縛り」から解き放たれ、自らを取り戻そうとする表現ではないかとしています。